旧中津村箒産業の歴史 (まちづくり山上代表・柳川直子「ほうきづくりの町、職人、暮らし」 2003年 より抜粋)

■中津村、箒産業の誕生

 柳川直子より5代前、1822(文政5)年生まれの柳川常右衛門は、明治維新の頃新しい生き方を求め、妻子を村に置いたまま諸国を渡り歩いた。
その後、箒草の栽培と共柄箒の製造技術を学び故郷に帰った。これを起源として、箒産業がこの中津村一帯に広まる事となる。
 大正期から昭和20年までの間に、箒産業はますます発展し、箒草を地元だけでなく千葉・群馬・茨城・長野などから買い付けるようになった。
この頃には中津村の一大産業となり、ほとんどの農家が夏場、小麦を収穫した後の畑に箒草を栽培し、男は箒を作り、これに加えて、女・子どもが
内職として糸を編んだり、綴じつけたりといった飾り付けを行い、箒産業に関わるようになった。この飾りつけを「アミ、トジ」といった。
また、流通の形式をとる「行商人」も現れる。そして箒産業は、中津村に留まらず近隣の村にも広まっていった。

■輸入、生活様式の変化と衰退 

 戦後に入ると、中津の職人達は台湾において安い箒草を仕入れることを目的とした技術指導を始めるようになる。
やがて台湾での製造技術も高まり、原料の箒草だけでなく加工された箒が安価で日本に輸入される事となり、その結果日本の箒産業は
大きな打撃を受けることとなる。
 昭和30年代になると電気掃除機が普及し、また生活様式も変化し、箒の需要は一気に衰退する。その後、料亭・旅館など一部の需要に支えられ細々と続いたが、
機械生産の安い箒も出てきたことから、現在では自家用中心箒となっている。

現在の中津箒

市民蔵常右衛門では、かつての箒作りを復活させるため、原料である箒モロコシ(ホウキグサ)の無農薬栽培を進め、
多数イベントへの出展や企画、販売などにより文化の復興を試みている。
 愛川町では既に高度な技術は継承されていないが、かつての京都支店においては地域文化の刺激の中で職人技術が息づいており、
過去の箒技術を元に時代にあった用途で、新たな作品が編み出されている。
 また、近年箒の文化に興味を持つ若者なども加わり、新たに活動を展開している。